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たとえ罪を憎んでも・・

2018.9.7(FRI)今日の夜明け

※GIFサンプルの元画像は『大空の顔写真館』で無料公開しています。
「2018年9月分」をご覧ください。



 

 子供の頃、地元に敷地内に大きな生簀(いけす)を持つ養魚場がありました。
 そこはよく法事や親戚の集まりなどの会場として利用される事が多く、生簀の上に建てられた店舗の座敷では刺身を始めとする生簀内の鯉を使った料理が多く振舞われていました。

 

 そこでの料理はまだ幼かった頃の私の口に合わなかったためか、私はそこがあまり好きではありませんでした。
 しかしそこでは暗黙のルールとして、座敷内で人が食べ残した刺身などを生簀の中の鯉たちに餌としてあげてもいいという事になっていて、幼かった私はそれをやりたさに自分が全く手を付けなかった刺身はもとより、大人たちが食べ残した分まで集めて回り、大暴れしながら群がって来る無数の鯉たちに向け、完全に「遊び感覚」で投げ与えていました。

 

 「あれって共食いだったんだよな・・」


 幼い頃「おもしろい遊び」としてやってきたその行為が、違う視点から見れば「悍ましい行為」であった事に私が気づいたのは、確か小学校5、6年生の頃でした。

 

 私は「共食い」という行為を「蛮行」と思う感覚は人が持つ「理性」から生じるものであり、「理性」とは人が集団生活を営む上で自分が逆の立場に立った時、「それをされては困る」と感じる「論理的な損得勘定」を基準にして「社会が先導して人々の意識に浸透させた感覚」であると考えています。

 

 つまり、座敷から生簀の中に投げ込まれた刺身が「自分たちの仲間の肉」であるという事と、いずれは「自分自身にも同じ運命が待っている」という事を知りようのない鯉たちが何のためらいも無く共食いを続けるのは自然な事であり、もしそこに「悪」という概念を持ち込もうとするのであれば、それは、その「因果関係を理解した上で共食いをさせている」人間の方にだけ向けられるべきと考えます。

 

 人間社会には人と人がお互いの最低限の利害を侵害し合わなくて済むための「決まり事(法律等)」があり、私たち(一応に)善良な市民には、常日頃からその「決まり事」を何よりも尊重して生きているという「建前」があります。
 そのためなのでしょうか。私たちの社会では、毎日のようにその「決まり事」に背いたとされる人々が、実際には会った事もない無数の人々から「人として許せない」といった「本音の疑わしい正義感」を大義として「弱い者いじめ」にしか見えない迫害に晒される場面をよく目の当たりにします。

 

 昨日の早朝、元『モーニング娘。』の吉澤ひとみさんが、酒気帯び状態でのひき逃げ事件を起こした容疑で警視庁に逮捕されました。
 まだ事件の発生から2日と経っていない現時点において、その一世を風靡した国民的アイドルが起こした事件の報道は瞬く間に国内外へ拡散され、今後受ける事になるであろう刑事罰等とは一切関係ないはずの所で、既にその「吉澤ひとみ」という日本中から慕われてきたはずの人物が一変して「人として許せない身勝手な犯罪者」という最悪の認識のもと、ワイドショーやネット上の書き込みなどで総攻撃に晒されています。

 

 私は考えます。政治家でも法律家でも警察官でもない私たちにとって、まるで自分自身が犯罪者とは正反対の「正義を愛して止まない清く正しい人間」でもあるかのような怪しい大義を掲げてまで、他人が犯した過ちにそれ以上の罰を課する必要など果たしてあるのでしょうか?

 

 確かに、やってはいけないはずの事をやってしまった者が、誠意を持って被害者や社会に対して償いを果たすのは当然の「けじめ」だとは思います。
 しかし、それとは一切関係の無いはずの所で、何故人はこうも露骨に他人の過ちに便乗して、それを過剰に非難するような心無い事を繰り返すのでしょうか?

 

 もし仮に「過ちを犯し警察沙汰になるような人間」が、元々その他の「善良な市民」とは根本的性質の異なる一握りの特異な人間であるからというのなら、何故その「善良」だったはずの人間たちの中から毎日毎日、新たな「総攻撃されても仕方のない人間」が誕生し続けているのでしょうか?
 
 人は誰しも過ちを犯すものであり、今日まで自他ともに「善良な市民」という認識のもとで社会生活を送っていた人が、明日どんな理由で「転落の余生」を余儀なくされる立場へ追いやられる事になるのかは、決して誰にも分からないはずなのです。

 

 人間は「生簀の中の鯉」ではありません。


 優れた知能を持つ私たち人間は、社会の必要悪的先入観だけに捉われて、自分自身の頭で「自分が貫くべき本当の態度」について考える事を放棄してはいけないのです。
 
「例え罪を憎んでも他人(ひと)を憎む事は ほどほどにしておかないと、自分が他人に向けて投げた石はいつか必ず自分に向けて投げ返されて来る。」

 

 私は人の過ちについて自分が取るべき立場を決める時、必ずこう考えた上で自分の立場を決める事にしています。