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追憶

 

 データ整理をしていたら、前職時代の写真が出てきたので掲載します。

 東日本大震災の頃のものです。

 当時私は関西の方に住んでおり(現在は南関東)、震災の翌日から仙台市若林区の霞目飛行場を拠点に2ヵ月間ほど、最も被害の大きかった地域を中心に、「空からの情報収集」の仕事に従事しました。

 

壁から落ちて14時46分で止まったままの時計

 

 現地へは、震災翌日の日の出と同時に離陸して駆け付けたので、宿舎の方は割と優遇して手配して頂けたのですが、宿舎内は停電のために常に薄暗く水道も止まっていたので、排水の機能しなくなったトイレからは常に異臭が漂っていました。

 宿舎は夜になると更に真っ暗で、廊下の自動販売機を稼働させるため、真夜中に屋内で発電機を回して電源を取る人がいても、誰も何も言いませんでした。

 「社会」としての機能がすべて麻痺していて、そういった事をいちいち注意する余裕のある人もいなければ、必要なものを確保するための行動にも、平和な時と同等のモラルに従っている余裕が誰にも無かったのです。

 

 宿舎のすぐ近くでも、昼夜を問わず大量の煙を上げる火災が発生していましたが、まったく手つけずの状態でした。

 任務においても「火災は無視してよし、生存者のSOS信号を探して報告せよ」というのが当面の統制事項となっていました。

  しばらく、非常食と水だけの食事が続きました。しかし、その飲み水さえも大切に飲まなければ、次に補給できる機会がいつになるのか分からない状況でした。

 そして、頻繁に襲ってくる大きな余震。

 「もうこの国は終わりなのかも知れない。自分はわざわざここで死ぬために無駄な事をしに来たのかも知れない・・」

 ふと気が付くと、いつの間にかそんな弱気になってしまっている自分に気づく事も、最初の頃はしばしばありました。

 

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