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追憶2

 

 発災の日、私の所属していた班は、津波警報の出ていた自分たちの管轄内の沿岸部地域を偵察しました。

 大阪湾東部から和歌山県南端にかけての沿岸地域について、津波による被害が発生しているかどうかの確認が任務の焦点でした。

大阪湾へ沈みゆく 3月11日の夕日

  通常であれば1ミッション2時間でフライト計画を立てるところを、その日は実に3時間半以上もの間、全神経を集中した任務フライトとなりました。

 私はあの当時、自分が普段搭乗していた航空機に実はあれほど長く飛行する性能があった事をあの日まで知りませんでした。

 幸い私たちの管轄地域において、東北での地震に起因する津波被害等は確認されず、それに伴い、私たちの班は翌日の夜明けとともに支援のため、仙台へ向け飛び立つ事となったのでした。

 

震災直後の冠水した仙台市沿岸部地域

津波と引き波によって崩壊した市街地

 現地での生存者救出のための航空偵察は、日の出から日没までの間絶え間なく続けられました。

 またフライト中の機内では、普段の訓練や小規模な実任務とは比較にならないほど複雑で多くのニーズや調整に終始対応を迫られ、自分のミスのために地上での救助活動に支障を出す訳には行かないという緊張感から、目の前に広がる惨状に対して、感情の入り込む余地を一切持つ事ができませんでした。

 悲しい現実が「人間」である私の心に重くのしかかって来るのは、いつも「任務完了」の指示を確認して、安堵の大きなため息をついた直後から、着陸準備の交信を始めるまでの帰路での間での事でした。

 そこにはいつも、たくさんの命が儚く奪われた死の世界が広がっていました。

 壊滅した集落。湾内を漂う民家。手持ちの地図と照らし合わせて初めて知った、その日の直前まで「海水浴場」と呼ばれていた この世の地獄・・

 それは、それまでの自分の人生の中で見てきた現実とは大きくかけ離れた死の世界であり、また映画等のフィクションの世界の中でさえ見た事もないほど大規模に広がる悲惨で残酷な現実でした。

 

 


震度7の地震で大きく傾いた 管制塔出入り口付近の自動販売機

 発災直後から数日間は、ヘリで救助されてきた人たちを迎える救急車が、絶え間なく管制塔の脇まで乗りつけられ、九死に一生を得た多くの人たちを病院へ運んで行っていました。

 しかし、救助されて来る人たちは時間の経過と共に体力を使い切った瀕死の状態で救助されてくるケースが多くなり、自分の力で歩く事ができず、救急隊員の方の担架で運ばれていく人が大半を占めるようになって行きました。

 しかし、それでも要救助者を乗せた救急車はサイレンを鳴らして飛行場を後にして行ったのですが、更に時間が経過して行くと、要救助者を乗せたはずの救急車がサイレンを鳴らす事なく飛行場を後にしていくケースばかりになって行きました・・

参考記事:『追 憶』『追憶3